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shift one's responsibility to someone else |
注意!
- お読みになる前の注意事項 -
この下にある境界線から始まる本編は、ジム・キャリー主演の映画「トゥルーマン・ショー」について書かれています。
(1) この映画を絶対に観に行くという人は、絶対に下の本編を見ないでください。そして周囲の雑音が大きくなる前に、なるべく早く観に行ってください。警告:パンフレットは映画を観終わってから買うか、たとえ観る前に買っても絶対に開いてはいけません。
(2) この映画を観に行くかどうか悩んでいる人は、強く観に行くことをお勧めしますが、それでも悩んでいる場合は、下の本編の「そんなジム・キャリーが苦手な方には、」と書かれたパラグラフまでを読んでみてください。それ以下は絶対に見てはいけません。
(3) 観に行くつもりが全然無い人やジム・キャリーが嫌いな人は、下の本編のカットシーンの箇所まで読んでみてください。そこから下の境界線以降は絶対に見てはいけません。
(4) 既に観に行かれた方は全て読んでも大丈夫です(^^;。
カットシーンより手前は話の筋が分かるようなことは一切書いていません。だから、仮に観に行く人がそこまで読んでしまっても、特に支障はありません。
ただし、カットシーン以降は思いっきりネタばれなので、読んでしまうと面白みが半減するかも知れません。
この映画は、感想を含めた作品に関する一切の情報が無い方が、より楽しめます。ですので、なるべく早く映画を観てから、またここに戻ってきて頂けると、これ幸いです(^^;。
これは "#55 / what's talking about?" の 1998年11月14日、15日付けに書いたアーティクルに、作品の内容そのものに対する所感を加筆したものです。
今年の冬に公開される映画では、個人的には一番期待の作品「トゥルーマン・ショー」を初日に観に行ってきた(次作はやはり「アルマゲドン」と「踊る大捜査線」か?)。土曜の最後の時間にも関わらず、地元の劇場だったせいか(?)、それほど混んでいなかった(隣で公開されていた「踊る大捜査線」の方が、まだ混んでいた位だ(^_^;)。それはたぶん、ジム・キャリーの映画なので避ける人が多いという理由によるモノなのかも知れない。だから、もし、それだけの理由で観に行かない人がいたら、声を大にしてこう言いたい。
アンタ、はっきり言って、 そりゃ大間違いである
自分の場合、取り立てて彼の大のファンという訳ではないのだが、なぜかジム・キャリーの映画はチェックしてしまう。彼のために作られたような顔面変幻自在映画「マスク」、超怪しげなペット探偵「エース・ベンチュラ」、主役を完璧に食いつぶしていた「バットマン・フォーエバー」、キレたケーブルテレビ配管工事人「ケーブル・ガイ」、つきたい嘘を付けなくなった嘘つき弁護士「ライアー・ライアー」など、なぜか知らないがきちんと観てしまう(「ミスター・ダマー」と「エース・ベンチュラ2」は、まだ未見だけど)。
# その後、「エースベンチュラ2」は観ました。相変わらず、トバしていました(^^;。
彼の持ち味は、良くも悪くもあのドクドクしいまでのクドい演技にある(あれを演技というのかどうかも謎だが(^_^;)。だから、「ジム・キャリーの出る映画」というのは一つのジャンルであり、かなりハッキリと好き嫌いが分かれる。
そんなジム・キャリーが苦手な方には、「ライアー・ライアー」を観てから、この映画を観ることをお勧めする。確かに「ライアー・ライアー」のジム・キャリーも非常にクドいのだが、こういう役柄もこなせるのかという驚きと、ハート・ウォーミングなストーリーが相まって、彼の別の一面を垣間見ることが出来るはずだ。そして、是非ともジム・キャリーが好きになってから、この映画を観てもらいたい。
そして、どーしよーも無くジム・キャリーが嫌いで、あの演技とも付かない演技が死ぬほど許せない方には、絶対に「ライアー・ライアー」を観ないで、この映画を観て欲しい。この映画でのジム・キャリーは、ジム・キャリーであってジム・キャリーではないのだ。だから、是非ともジム・キャリーが嫌いなままで、この映画を観てもらいたい。
監督のピーター・ウィアーという人物は、「スター・ウォーズ」のハン・ソロ役や、「インディ・ジョーンズ」のインディ役で、荒くれ者のムチャな冒険野郎というレッテルを貼られたハリソン・フォードを、「刑事ジョン・ブック/目撃者」でサスペンスもこなせる渋い俳優として脱皮させた手腕を持つ。そして、その手腕はスペシャル・オーバー・アクションのキャラクターばかりを演じ続け、マンネリズムに陥りかけているジム・キャリーにも遺憾なく発揮された。
何ともいろいろと考えさせられる映画である。正直に言おう。エンド・ロールが最後まで流れ、大部分の観客がいなくなるまで、体が震えて、オレは席を立てなかった。
この映画のジム・キャリーも、確かに多少クドい。しかし、映画を観てもらえば良く分かるのだが、この映画での彼のクドさは必要にして不可欠であり、それ以外の部分できちんとした演技をこなせるかどうかが、この映画にとっての一番の命なのだ。その演技がおざなりかどうかで、この映画が後生にも伝わる素晴らしい映画となるか、失笑の中で早々と消え去る駄作となるかが決定してしまうのだ。その位、この映画は脚本が素晴らしく、また役者に寄りかかる部分が大きい。だから、ある意味でジム・キャリーという人物をこの映画の主役に据えることは、一種の賭だ。
彼は賭に乗った。彼は、己が周囲から期待されているであろう自分の芸風を活かしつつも、これまでの作品では殆ど見せたこともない素晴らしい演技で観客を魅了した。そして、この映画はとんでもなく最高の映画に仕上がったのだ。彼らは賭に勝ったのだ。
そして、この映画を語る上で、もう一人の人物を忘れてはいけない。それは、エド・ハリスだ。彼の神懸かった演技がなければ、この映画はひどく薄っぺらなものになってしまったであろう。この映画に潜む重厚なテーマを浮かび上がらせたのは、彼の力であったといっても過言ではない。主人公はあくまでジム・キャリーであるが、この映画はエド・ハリスの代表作と言ってもいいかも知れない。それ位に彼の存在は重大な位置を占めている。
この映画は前知識が無ければ無いほど、内容を知らなければ知らないほど、観たときの衝撃が大きい。よって、今回は殆ど作品そのものについては触れないことにする。この映画の抱えているテーマは多く、そして根深い。書きたいことはそれこそ山ほどあるが、それを書いてしまうと、この映画の凄さを身をもって感じる余地を削り取ってしまう一因となってしまう(といって、この映画の良さが減ることにはならないが)。
だから、この映画を観て、もう語りたくて語りたくてしょうがなくなってしまった誰かが、この映画について思う存分に語ろうと、あなたのもとに近づいてきたら、あなたの取るべき行動はただ一つ。それは耳を塞ぐことだ。
[参考]
the TRUMAN show official web site
http://www.trumanshow.com/
IMDb - The Internet Movie Database
Jim Carry
http://uk.imdb.com /Name ?Carrey, +Jim
Ed Harris
http://uk.imdb.com /Name ?Harris, +Ed
the TRUMAN show
http://uk.imdb.com /Title ?Truman +Show, +The +(1998)
Liar Liar
http://uk.imdb.com /Title ?Liar +Liar +(1997)
The MASK
http://uk.imdb.com /Title ?Mask, +The +(1994)
Ace Ventura: Pet Detective
http://uk.imdb.com /Title ?Ace +Ventura%3A +Pet +Detective +(1994)
Ace Ventura: When Nature Calls
http://uk.imdb.com /Title ?Ace +Ventura%3A +When +Nature +Calls +(1995)
# 淀川長治さんは、この映画を観たのだろうか。。。
これ以降は、映画をご覧になってからお読みください。
本当に思うところの多い映画である。 この映画はいろいろな見方の出来る映画だ。メディア論から論じても、宗教的な側面から探っても、アメリカという国から視点を切り開いても、人生観からのぞいてみても、そして役者から考えてみても、この映画は沢山のことを語っている。
もし、この映画が、笑顔で扉の向こう側に消えゆくトゥルーマンと、最後の視聴者の歓声で幕を閉じていたら、その印象は今自分が抱いているそれとは、天と地の差ほど違っていたはずだ。そして、たぶん「今年の冬に公開された中では一番の映画」という評価に止まっていたに違いない(そして、もちろん気持ちよく映画館を出られたはずだ)。
しかし、この映画は、最後の最後にとっておきの爆弾を、我々に用意してくれていたのだ。私にとって「今まで観た全ての映画の中でも10本の指に入る衝撃的な映画」となったのは、幕切れ寸前のラスト・シーケンスで見せた警備員の一言があったからに他ならない。
「さ、次はどの番組を見よう?」
このシーンを観た瞬間に、脳天に釘を刺されたかのような凄まじい衝撃を受けた。今まで観てきたどんな映画からも受けなかった、それはそれは凄まじい衝撃だった。
この映画を観ていた観客は、それこそ映画の中の視聴者と同じ感覚で、手に汗を握り、トゥルーマンの本当の生活を見守っていた。だから、最後にトゥルーマンが(コロンブスがアメリカを発見した時に乗っていた船の名前と同じ)サンタ・マリア号で、「外界への扉」にたどり着き、そして素晴らしい笑顔で扉をくぐる瞬間、それこそスクリーンに向かって拍手を送りたくなるような衝動に駆られるのだ。
ところが、たった数秒の − 長い映画の中のほんの一瞬の最後の − このシーンの存在により、結局のところ、我々は一人の男の数奇な運命を、彼に同情的な他の視聴者と同様に、単に楽しんでいただけに過ぎないということに、いきなり気付かされるのだ。その瞬間、我々はエゴイスティックなクリストフという存在を、自分が神だと思いこんでいるこの蔑むべき対象を、全く非難できなくなってしまう。そして、トゥルーマンが最後に見せた、あの素晴らしい笑顔に感動していた自分を、この途端、見失うのだ。
一体、我々は何に感動していたのだろうか? 彼の笑みに感動すること自体、クリストフがトゥルーマンを極楽の監獄に閉じこめていることを肯定することに他ならないのではないのか? そう思わずにはいられない。
私はこの映画を観る前に、いろいろと交わされる評価の中で、とりわけ「各メディアから絶賛を浴びている」というのが妙に気になっていた。メディアから絶賛を浴びるのは、往々にしてメディアを皮肉っている作品だったりすることが多い(以前に取り上げた「ワグ・ザ・ドック」がその典型)。そして、実際、この映画はある側面では、クリストフをスケープゴートにしてメディアを皮肉っているようにも見える。しかし、この映画が皮肉っているのは(痛烈に批判しているのは)、実はそんなところにはないのだ。
この映画は表層上は強烈にマスコミを皮肉っているように見せかけて、実は「マスコミはヤリ過ぎだ!」と文句をたらしつつも、本当はマスコミがヤリ過ぎることを心の底から望んで止まない、我々視聴者そのものを痛烈に皮肉っているのだ。
それを悟った瞬間だった、私が本当に席を立てなくなったのは。
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